なぜ私たちの体は自分を攻撃しないのか?その謎を解いた日本人

「免疫を抑える細胞があるはずがない」――世界中の研究者から批判された日本人科学者が、30年の孤独な研究の末、ついにその正しさを証明しました。2025年10月6日、スウェーデンのカロリンスカ研究所は、京都大学名誉教授で大阪大学免疫学フロンティア研究センター特任教授の坂口志文氏(74歳)に、ノーベル生理学・医学賞を授与すると発表したのです。

米システム生物学研究所のメアリー・ブランコウ氏(64歳)、米ソノマ・バイオセラピューティクスのフレッド・ラムズデル氏(64歳)との共同受賞となり、その授賞理由は「末梢性免疫寛容に関する発見」でした。日本人のノーベル賞受賞は2年連続、個人では29人目、生理学・医学賞としては2018年の本庶佑氏以来7年ぶり6人目の快挙です。

そして今、この発見が、がん、自己免疫疾患、アレルギーで苦しむ何百万人もの患者さんに希望の光を届けようとしています。2026年には、ついに初の臨床試験が始まります。

30年の孤独な戦い「免疫を抑える細胞があるはずがない」

坂口氏の研究人生は、常識への挑戦の連続でした。1980年代、正常なマウスからある種のT細胞のグループを取り除くと自己免疫病が起こることを発見しました。この発見から、坂口氏は「免疫の攻撃を抑える特別な細胞が存在するのではないか」という仮説を立てたのです。

しかし、当時の免疫学の常識では「免疫システムは外敵を攻撃するためのもの」という考え方が支配的でした。「免疫を抑える細胞があるはずがない」という批判の声が、世界中の研究者から上がりました。学会で発表すれば嘲笑され、論文は却下され続けました。それでも坂口氏は自説を信じ、誰も信じてくれない中で、地道な実験を重ね続けました。

そして1995年、ついに画期的な発見を成し遂げます。免疫の攻撃を抑える特異なリンパ球「制御性T細胞(Regulatory T cell、通称Treg)」の目印となる分子CD25を発見し、論文に発表したのです。この制御性T細胞こそが、免疫システムにおける「ブレーキ役」として機能し、免疫の暴走を防ぐという革新的な事実が明らかになりました。

3人の研究者が解き明かした免疫の精密なメカニズム

制御性T細胞の全貌が明らかになるには、国際的な研究者の協力が不可欠でした。2001年、メアリー・ブランコウ氏とフレッド・ラムズデル氏は、特定の遺伝子系統のマウスに自己免疫疾患が多発することを発見しました。全ゲノム解析を行った結果、Foxp3という遺伝子に変異があることを突き止めたのです。

さらに重要な発見がありました。この遺伝子変異は、ヒトにおいても「IPEX症候群」という遺伝性の自己免疫疾患を引き起こすことが判明したのです。男児に発症するこの致命的な疾患は、Foxp3遺伝子の欠損が原因でした。

2003年、坂口氏はこのFoxp3遺伝子が制御性T細胞の成長や働きに欠かせない「マスター遺伝子」であることを突き止めました。つまり、Foxp3は制御性T細胞という「司令官」を動かす重要な指令書のような役割を果たしていたのです。異物を排除した後、免疫システムが暴走せずに落ち着くという一連のプロセスも、このメカニズムによって制御されていることが明らかになりました。

制御性T細胞とは何か?体を守る「免疫のブレーキ」

私たちの体には、細菌やウイルスなどの外敵から身を守るために免疫システムが備わっています。この免疫システムの主役がT細胞です。しかし、この強力な武器は時として暴走し、自分自身の細胞を攻撃してしまうことがあります。これが「自己免疫疾患」です。

ここで登場するのが制御性T細胞です。制御性T細胞は、いわば免疫システムの「ブレーキ役」として機能します。外敵を攻撃し終わった後、あるいは自己の細胞を誤って攻撃しようとする免疫細胞に対して、「もう十分だ、攻撃をやめなさい」という信号を送るのです。

車にアクセルだけでブレーキがなければ、必ず事故を起こします。免疫システムも同じです。攻撃する力だけでなく、適切に止める力があって初めて、私たちの健康は守られるのです。

この精密な制御システムがなければ、私たちの体は常に自己免疫疾患のリスクにさらされることになります。関節リウマチ、1型糖尿病、多発性硬化症、全身性エリテマトーデスなど、多くの自己免疫疾患は、この制御性T細胞の機能不全と関連していることが分かってきました。

がん細胞の巧妙な戦略「免疫のブレーキを悪用する」

興味深いことに、がん細胞はこの制御性T細胞を巧みに利用していることが明らかになっています。がん細胞は、自らの周囲に制御性T細胞を集め、免疫システムからの攻撃を回避しているのです。

悪性黒色腫(メラノーマ)や肺がんなどの多くのがんでは、がん微小環境において制御性T細胞が異常に増加していることが観察されています。通常、CD4陽性T細胞の中で制御性T細胞が占める割合は数パーセント程度ですが、がん組織では20~50パーセントにまで増加することが分かっています。

これは、がん細胞が免疫の「ブレーキ」を最大限に踏ませることで、免疫システムによる攻撃から逃れているということです。逆に言えば、この制御性T細胞の働きを抑制すれば、がん細胞に対する免疫反応を強化できる可能性があります。

実は、2018年にノーベル賞を受賞した本庶佑氏が開発した「オプジーボ」も、この免疫のブレーキを解除する薬です。坂口氏の制御性T細胞の発見は、がん免疫療法という革新的な治療法の理論的基盤となっているのです。日本の免疫学研究が、連続してノーベル賞を受賞し、がん治療を変革していることは、世界的にも注目されています。

医療革命への道筋「臓器移植から難病治療まで」

制御性T細胞の発見は、様々な医療分野に革新をもたらす可能性を秘めています。特に期待されているのが、以下の4つの領域です。

1. 臓器移植医療の進化

臓器移植後の最大の課題は、移植臓器に対する拒絶反応です。現在は強力な免疫抑制剤を使用していますが、これは体全体の免疫機能を低下させるため、感染症のリスクが高まります。患者さんは一生、感染症との戦いを強いられます。

制御性T細胞を活用すれば、移植臓器に対する攻撃のみを選択的に抑制し、他の病原体に対する免疫機能は維持するという、より精密な免疫制御が可能になると期待されています。これは移植を受けた患者さんのQOL(生活の質)を劇的に改善する可能性があります。

2. がん治療の新たなアプローチ

前述の通り、がん細胞は制御性T細胞を利用して免疫から逃れています。逆に、がん組織内の制御性T細胞の働きを抑制すれば、がん細胞に対する免疫攻撃を強化できます。この原理に基づいた新しいがん治療法の開発が、世界中で進められています。

3. アレルギー疾患の根本治療

花粉症、食物アレルギー、アトピー性皮膚炎、喘息などのアレルギー疾患は、特定の抗原に対する過剰な免疫反応が原因です。日本では国民の約40パーセントが何らかのアレルギーを持っているとされており、まさに国民病と言えます。

制御性T細胞の働きを強化することで、この過剰反応を適切にコントロールし、根本的な治療につなげられる可能性があります。対症療法ではなく、根本治療が可能になれば、多くの患者さんの人生が変わるでしょう。

4. 自己免疫疾患の治療

関節リウマチ、全身性エリテマトーデス、1型糖尿病、多発性硬化症など、多くの自己免疫疾患は、免疫システムが自己の細胞を攻撃することで発症します。これらの疾患は現在、完治させることが極めて困難で、患者さんは一生、症状と闘い続けなければなりません。

制御性T細胞の機能を回復させることで、これらの難治性疾患に対する新たな治療法が開発される可能性があります。難病指定されている疾患の多くが、この研究によって治療可能になる未来が見えてきています。

日本のノーベル賞技術が融合「iPS細胞×制御性T細胞」

制御性T細胞を治療に応用する上で課題となっていたのが、患者ごとに十分な量の制御性T細胞を用意することでした。制御性T細胞は全T細胞の数パーセントしか存在せず、体外で培養して増やすことも容易ではありませんでした。

この問題を解決する技術として注目されているのが、iPS細胞(人工多能性幹細胞)を用いた制御性T細胞の作製です。2012年にノーベル賞を受賞した京都大学の山中伸弥氏が開発したiPS細胞技術を応用することで、患者自身の細胞から大量の制御性T細胞を効率的に作り出すことが可能になりつつあります。

これは驚くべきことです。日本が生み出した2つのノーベル賞級の技術が融合し、新しい医療を創り出そうとしているのです。iPS細胞と制御性T細胞――この2つの日本発の技術が、世界中の難病患者さんを救う日が近づいています。

この技術により、医療現場での使いやすさが向上し、治療コストの削減も期待できます。個別化医療(一人ひとりに最適化された治療)の実現に向けて、大きな一歩となるでしょう。

2026年、ついに臨床試験開始へ「あと1年で患者さんに届く」

基礎研究から実用化へ、ついに大きな一歩が踏み出されようとしています。坂口氏らが設立したスタートアップ企業「レグセル」は、2026年にも米国で初の臨床試験(治験)を開始する予定を発表しました。

この治験の対象は自己免疫疾患で、制御性T細胞を用いた治療薬の開発を目指しています。1995年の発見から約30年、ようやく制御性T細胞が実際の患者さんの治療に使われる日が近づいているのです。

「いつになったら使えるの?」という患者さんの切実な声に対して、「あと1年です」と答えられる日が来ました。レグセルの取り組みは、大学の基礎研究が実際の医療現場に届くまでの道のりの長さと、その重要性を示しています。坂口氏の発見が、苦しんでいる患者さんたちに希望の光を届ける日も、そう遠くないのです。

日本の基礎研究の底力「地道な努力が世界を変える」

坂口氏の受賞は、日本の基礎研究の重要性を改めて示すものとなりました。「役に立つかどうか分からない」と言われることもある基礎研究ですが、坂口氏の30年にわたる地道な研究が、今や世界中の患者さんの命を救う可能性を秘めた医療技術の基盤となっているのです。

特に注目すべきは、常識に挑戦し続けた姿勢です。「免疫を抑える細胞があるはずがない」という世界中の研究者からの批判を受けながらも、自分の信じる道を貫き通した坂口氏の研究姿勢は、若い研究者たちにとって大きな励みとなるでしょう。

日本の研究環境は、研究費の削減や若手研究者のポスト不足など、多くの課題を抱えています。しかし、坂口氏(2025年)、本庶佑氏(2018年)、大隅良典氏(2016年)、山中伸弥氏(2012年)と、日本の生命科学分野は連続してノーベル賞を輩出し続けています。これは、日本の研究基盤がまだ健在であることの証明です。

ただし、これは過去の投資の成果です。今、研究費を削減すれば、30年後にノーベル賞を取れる研究者はいなくなるかもしれません。坂口氏の受賞を機に、基礎研究への投資の重要性が再認識されることを願います。

免疫学の新時代「教科書が書き換わる」

坂口氏らの研究は、免疫学の教科書を根本から書き換えるものでした。従来の免疫学では「いかに外敵を効率的に攻撃するか」という視点が中心でしたが、制御性T細胞の発見により「いかに適切に免疫を制御するか」という新たな視点が加わりました。

免疫システムは、単純に「強ければ良い」というものではなく、「適切にコントロールされている」ことが重要なのです。アクセルとブレーキの両方があって初めて、車が安全に走行できるように、免疫システムも攻撃と抑制のバランスが取れて初めて、私たちの健康を守ることができるのです。

この発見は、免疫学だけでなく、医学全体のパラダイムシフトをもたらしつつあります。病気を「治す」だけでなく、体のバランスを「整える」という視点の重要性が、改めて認識されているのです。東洋医学が伝統的に重視してきた「バランス」の概念が、最先端の免疫学によって科学的に証明されたとも言えるでしょう。

次世代への期待「制御性T細胞研究の未来」

制御性T細胞の研究は、まだ始まったばかりです。現在、世界中の研究者たちが、この細胞の詳細なメカニズム解明と医療応用に向けて研究を進めています。

特に期待されているのは、制御性T細胞を「プログラミング」する技術です。特定の抗原に対してのみ働く制御性T細胞を人工的に作製できれば、臓器移植、アレルギー、自己免疫疾患など、様々な疾患に対してオーダーメイドの治療が可能になります。

また、がん治療においては、がん細胞が制御性T細胞を利用するメカニズムのさらなる解明が進んでいます。このメカニズムを阻害する新薬の開発により、より多くのがん患者さんが恩恵を受けられる日が来るでしょう。

さらに、制御性T細胞は加齢とともに機能が低下することが分かっています。この機能低下が、高齢者に自己免疫疾患やがんが増える一因ではないかと考えられています。制御性T細胞の機能を維持・回復させる技術は、健康寿命の延伸にもつながる可能性があります。

患者にとっての希望「難病が治る日」

制御性T細胞の研究が実を結べば、現在治療法のない多くの難病患者さんに希望がもたらされます。

関節リウマチで痛みに苦しむ患者さん。1型糖尿病で毎日インスリン注射を続ける患者さん。多発性硬化症で車椅子生活を余儀なくされている患者さん。全身性エリテマトーデスで様々な臓器障害と闘う患者さん。臓器移植を待ち、移植後も拒絶反応と闘う患者さん。重度のアレルギーで食事や日常生活に制限のある患者さん。そして、がんと闘う患者さんたち。

坂口氏は受賞後の会見で「基礎研究が患者さんの役に立つ日が来ることを願い続けてきた」と語りました。30年間、誰も信じてくれない中で続けた地道な研究が、ようやく実を結び始めています。

「治らない」と言われた病気が「治る」病気になる。それは患者さん本人だけでなく、その家族、友人、すべての人々にとっての希望です。坂口氏の研究は、何百万人もの人々の人生を変える可能性を秘めているのです。

まとめ:免疫学が拓く新しい医療の未来

2025年のノーベル生理学・医学賞は、坂口志文氏、メアリー・ブランコウ氏、フレッド・ラムズデル氏による制御性T細胞の発見とその機能解明という、人類の健康に大きく貢献する研究成果に贈られました。

この発見は、免疫システムが単なる「攻撃システム」ではなく、「精密に制御されたバランスシステム」であることを明らかにしました。そして、このバランスを理解し、操作することで、これまで治療が困難だった多くの疾患に対する新たなアプローチが可能になりつつあります。

日本発の2つのノーベル賞技術――iPS細胞と制御性T細胞――が融合し、新しい医療を創り出そうとしています。2026年には初の臨床試験が始まり、基礎研究が実際の患者さんの治療に届く日が近づいています。

基礎研究の重要性、常識に挑戦する勇気、そして地道な努力の積み重ね。坂口氏の研究人生が教えてくれるこれらの教訓は、科学研究の世界だけでなく、私たちの日常生活にも通じるものがあります。誰も信じてくれなくても、自分が正しいと信じることを貫き通す。その姿勢が、30年後に世界を変える発見につながることを、坂口氏は証明してくれました。

免疫学の新時代が、人類の健康と幸福に大きく貢献する日は、もうすぐそこまで来ているのです。

投稿者 hana

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