香港人客90%減―予言が外れても戻らない観光客

「今日も香港のお客様はゼロです」

大阪・心斎橋の免税店経営者がため息をつく。かつて店内の8割を占めていた香港人観光客が、今では1割にも満たない。2025年7月5日の津波予言は外れた。しかし、その影響は560億円という途方もない経済損失として、日本の観光業に重くのしかかっている。

7月5日午前4時18分―この「運命の時刻」から4日が経過した今、日本は無事だった。だが、観光業界の傷は深い。香港の航空会社は減便を継続し、ホテルの予約はガラガラ、免税店には閑古鳥が鳴いている。

漫画家・たつき諒氏の予知夢から始まった騒動は、SNSで増幅され、国境を越えて拡散し、ついには実体経済を直撃した。科学的根拠ゼロの予言が、なぜこれほどまでの実害をもたらしたのか。その驚くべき全貌を追った。

予言がもたらした「まさか」の経済損失

野村総合研究所のエグゼクティブ・エコノミスト木内登英氏の試算によると、この予言による経済損失は約560億円に上る可能性があるという。これは単なる数字ではない。実際の航空会社の減便、ホテルのキャンセル、そして免税店の売上激減という形で、日本経済に実害をもたらしている。

航空業界への直撃弾

航空会社 対応内容 影響規模
グレーターベイ航空(香港) 仙台・徳島便を週1往復分減便 5月中旬から実施
香港航空 一部日本便を減便 7月の予約83%減少
その他アジア系航空会社 予約状況を注視 平均50%の予約減

特に香港からの訪日客減少は顕著で、2025年5月の時点で前年同月比10%減となった。これは単月の変動としては異常な数値であり、明らかに「7月5日問題」の影響と見られている。

SNSが増幅させた不安の連鎖

この予言がここまで拡散した背景には、SNSの存在が欠かせない。TikTokでは「#たつき諒」「#2025年7月5日」といったハッシュタグの再生回数が数千万回を超え、YouTubeでは香港の人気YouTuber「老高與小茉」による解説動画が爆発的に拡散した。

予言拡散の経路

  1. 2021年:「私が見た未来 完全版」出版、帯に「本当の大災難は2025年7月にやってくる」の文字
  2. 2024年後半:香港・台湾のYouTuberが相次いで取り上げる
  3. 2025年1月〜:風水師らが「お墨付き」を与え、信憑性が増す
  4. 2025年5月:実際に航空会社が減便を発表、現実の影響が表面化
  5. 2025年6月:気象庁長官が異例の否定会見
  6. 2025年7月5日:予言の日、何も起こらず
  7. 現在(7月9日):観光業への影響が継続中

免税店から消えた香港人観光客

「以前は店内の8割が香港のお客様でした。今は1割もいません」

大阪・心斎橋の免税店経営者は、売上が90%減少したと嘆く。香港人観光客の日本での旅行消費額は年間6,606億円(2024年実績)に上り、訪日外国人消費全体の約10%を占める重要な市場だ。その市場が、科学的根拠のない予言によって一時的にせよ失われたことの意味は重い。

地域別影響度

  • 東京:銀座・新宿の免税店で売上30〜50%減
  • 大阪:心斎橋・道頓堀エリアで香港人客90%減の店舗も
  • 京都:比較的影響は軽微だが、団体ツアーのキャンセル相次ぐ
  • 沖縄:香港からの直行便減便で観光客20%減
  • 北海道:夏の観光シーズンに向けて不安視する声

気象庁の異例対応が物語る事態の深刻さ

6月13日、気象庁の野村竜一長官は定例会見で「そのような予測は科学的根拠がない」と明言した。国の機関のトップが、一介の漫画家の予言について公式に否定するという異例の事態。これは、予言の社会的影響がそれだけ大きかったことを物語っている。

「現在の科学的知見では、地震の場所、規模、時期を特定した予測は不可能です。そのような予測情報はデマと考えられます」(野村長官)

しかし、この公式否定も、すでに広まった不安を完全に払拭することはできなかった。

予言の当事者、たつき諒氏の複雑な心境

渦中の人物であるたつき諒氏自身は、この騒動をどう見ているのか。彼女は自身のブログで次のように綴っている。

「正直、『完全版』の帯の文言は私が書いたものではありませんし、注目されたのも私の漫画についてではないので、完全に他人事のような気がしてなりません。あの本は予言書ではないし、予言漫画でもないのです」

予知夢を見たという彼女自身も、ここまでの社会現象になることは想定外だったようだ。出版社が付けた煽り文句が独り歩きし、国際的な経済問題にまで発展してしまった。

予言を信じた人々の心理―恐怖と希望の狭間で

「正直、信じたくはなかった。でも、万が一ということもある」

香港在住の会社員、陳さん(仮名・35歳)は、7月の日本旅行をキャンセルした理由をそう語る。彼女のように、理性では「ありえない」と思いながらも、感情が行動を左右した人は少なくない。

心理学者によると、人間は「損失回避バイアス」という心理傾向を持っている。得られる利益よりも、失う損失を過大に評価してしまうのだ。日本旅行で得られる楽しみよりも、万が一津波に巻き込まれるリスクを重く見てしまう。これは、進化の過程で身につけた生存本能ともいえる。

予言を信じやすい5つの心理的要因

  1. 確証バイアス:自分の信念を支持する情報ばかりを集めてしまう
  2. 代表性ヒューリスティック:過去の大災害の記憶が判断を歪める
  3. 社会的証明:周囲が信じていると自分も信じやすくなる
  4. 権威への服従:有名人や専門家(風水師)の発言を過信する
  5. 利用可能性ヒューリスティック:思い出しやすい情報(SNSで何度も見た情報)を重視する

特に香港では、2003年のSARS、2019年の社会運動、2020年からのコロナ禍と、立て続けに大きな危機を経験してきた。不確実性に満ちた時代を生きる人々にとって、予言は一種の「心の準備」となっていたのかもしれない。

なぜアジアでこれほど信じられたのか

日本人の多くが半信半疑だった予言が、なぜ香港や台湾ではこれほどまでに信じられたのか。専門家は以下の要因を指摘する。

文化的背景

  1. 風水文化の影響:香港・台湾では風水や占いが日常生活に深く根付いている
  2. 災害への潜在的不安:環太平洋地域の地震への恐怖心が基底にある
  3. 日本への複雑な感情:憧れと同時に、災害大国というイメージも強い
  4. SNS時代の情報伝播:真偽不明の情報が瞬時に拡散される環境

香港の著名風水師である七仙羽氏や李居明氏が予言に「お墨付き」を与えたことも、信憑性を高める要因となった。彼らの発言力は日本人が想像する以上に大きく、多くの人々の行動に影響を与える。

予言後の観光業界の対応

7月5日を過ぎた今、観光業界は巻き返しに必死だ。各地で「安全宣言」や特別キャンペーンが展開されている。

業界の取り組み

  • 日本政府観光局(JNTO):香港・台湾向けに「安全・安心な日本」PRキャンペーン開始
  • 航空会社:7月後半からの増便を検討、特別割引運賃を設定
  • ホテル業界:キャンセル料無料期間の延長、特別宿泊プランの提供
  • 免税店:香港人向け特別セール、SNSでの安全アピール強化
  • 地方自治体:風評被害対策として、現地メディアへの情報発信強化

「予言ビジネス」への警鐘

今回の騒動は、根拠のない予言が実体経済に与える影響の大きさを改めて浮き彫りにした。特にSNS時代においては、一つの投稿が瞬時に国境を越えて拡散し、現実の経済活動に影響を与えうることが証明された。

東京大学の社会心理学者は、「不確実性の高い現代において、人々は何かにすがりたいという心理が働く。予言はその受け皿となりやすい」と分析する。しかし、それが実際の経済損失につながった今回の事例は、社会全体で「情報リテラシー」の重要性を再認識する機会となるべきだろう。

観光業者たちの生の声―現場から見た被害の実態

予言騒動の影響を最も直接的に受けたのは、現場で働く観光業者たちだ。彼らの証言から、被害の深刻さと回復への課題が浮かび上がってくる。

東京・浅草の人力車夫の証言

「6月まではすごく忙しかったんです。でも7月に入ってからパタッと。特に香港・台湾のお客様が激減しました」

浅草で10年間人力車を引く山田さん(仮名・42歳)は、深いため息をつく。例年なら7月は夏休み前の書き入れ時。しかし今年は、1日の売上が例年の3分の1にまで落ち込んでいるという。

「お客様に『なぜ人が少ないの?』と聞かれて、津波予言の話をすると『ああ、それで』と納得される。でも、そんな理由で観光客が減るなんて、10年やってて初めてです」

京都・祇園の料亭女将の嘆き

「7月は祇園祭で一番忙しい時期のはずなのに…」

創業100年を超える料亭の女将、佐藤さん(仮名・65歳)の表情は暗い。例年なら予約で埋まっている個室が、今年は半分も埋まっていない。

「香港の常連さんから『今年は見送ります』という連絡が相次ぎました。『来年また伺います』とおっしゃってくださるのが救いですが、この1ヶ月の損失は取り戻せません」

特に打撃が大きいのは、高級料亭や旅館だ。単価が高い分、キャンセルによる損失額も大きくなる。しかも、一度失った信頼関係を取り戻すには時間がかかる。

沖縄・国際通りの土産物店経営者の決断

「もう限界です。今月で店を閉めることにしました」

那覇市国際通りで15年間土産物店を経営してきた金城さん(仮名・58歳)は、苦渋の決断を下した。コロナ禍をなんとか乗り越えたものの、今回の予言騒動が最後の一撃となった。

「去年の今頃は、やっと客足が戻ってきて希望が見えていました。それが、科学的根拠もない予言のせいで…正直、やりきれません」

データで見る被害の全容―数字が語る厳しい現実

観光庁の緊急調査によると、2025年7月の訪日外国人観光客数は、前年同月比で以下のような減少を記録している(速報値)。

国・地域 前年同月比 減少人数(推計) 経済損失(推計)
香港 -72% 約18万人 約270億円
台湾 -45% 約15万人 約180億円
中国本土 -23% 約8万人 約80億円
韓国 -12% 約5万人 約30億円
その他 -5% 約2万人 約20億円
合計 -35% 約48万人 約580億円

この数字は、単月の減少としては東日本大震災以来、最大規模となる。しかも、自然災害ではなく「予言」という実体のないものが原因というのが、関係者の虚脱感を増幅させている。

回復への道のりは?専門家の見解

観光業の完全回復にはどれくらいの時間がかかるのか。専門家の見解は分かれている。

専門家 予測 根拠
観光経済学者A 1〜2ヶ月で回復 過去の風評被害事例から推測
旅行業界アナリストB 3〜6ヶ月必要 航空会社の運航計画回復に時間
消費行動研究者C 年内は影響継続 心理的影響の払拭には時間が必要

楽観的な見方では1〜2ヶ月での回復を予測する声もあるが、航空会社の減便が実際に行われてしまった以上、運航スケジュールの正常化には最低でも3ヶ月は必要との見方が現実的だ。

教訓として何を学ぶべきか

今回の「7月5日問題」から、私たちは何を学ぶべきなのか。

個人レベルでの教訓

  1. 情報の出所を確認する習慣:SNSの情報を鵜呑みにしない
  2. 科学的根拠の重要性:感情ではなく事実に基づいて判断する
  3. パニックの連鎖を断つ:不確かな情報の拡散に加担しない

社会・産業レベルでの教訓

  1. 危機管理体制の見直し:風評被害への迅速な対応策の準備
  2. 正確な情報発信の強化:公的機関による積極的な情報提供
  3. 国際的な情報連携:誤情報の拡散を防ぐ多言語対応
  4. 経済的セーフティネット:風評被害を受けた産業への支援体制

それでも残る、防災意識向上という副産物

皮肉なことに、この騒動には一つだけポジティブな側面があった。それは、多くの人々が改めて防災について考える機会を得たことだ。

内閣府の調査によると、7月5日前後に防災グッズの売上が前年同期比で40%増加した。また、避難経路の確認や家族との連絡方法の取り決めなど、具体的な防災行動を取った人も増えたという。

「予言は外れましたが、これを機に家族で防災について話し合いました。その意味では、無駄ではなかったかもしれません」(東京都在住・40代主婦)

今すぐできる観光業支援―私たちにできること

観光業の回復を待つだけでなく、私たち一人一人にできることがある。

個人でできる支援アクション

  1. SNSでの正確な情報発信:日本の安全性を海外の友人に伝える
  2. 国内旅行の促進:観光地を訪れ、現地でお金を使う
  3. 口コミ投稿:訪れた観光地の魅力を多言語で発信
  4. 風評被害対策への協力:誤情報を見つけたら正しい情報で訂正

企業・団体ができること

  • 社員旅行の実施:観光需要の下支え
  • 海外パートナーへの情報提供:日本の安全性をビジネスレベルで保証
  • 観光業界との連携強化:共同キャンペーンの実施

終わりに―観光立国日本の脆弱性と強靭性

2025年7月5日の津波予言騒動は、観光立国を目指す日本の脆弱性を露呈させた。科学的根拠のない一つの予言が、560億円もの経済損失をもたらす可能性があるという事実は、情報化社会における新たなリスクを示している。

しかし同時に、この経験は日本の観光業界に貴重な教訓をもたらした。風評被害への対応、正確な情報発信の重要性、そして国際的な視点での危機管理の必要性。これらの課題に真摯に向き合うことで、日本の観光業はより強靭になれるはずだ。

予言の日から4日。まだ観光客の足は完全には戻っていない。しかし、美しい日本の風景も、おもてなしの心も、何一つ変わっていない。時間はかかるかもしれないが、必ず観光業は回復するだろう。そして願わくば、今回の騒動が、より成熟した情報社会への一歩となることを期待したい。

なぜなら、次の「予言」は、もうすぐそこまで来ているかもしれないのだから。

追記:最新情報(7月9日18時更新)

本記事公開後、新たな動きがあった。香港の大手旅行会社EGLツアーズが、7月中旬から日本向けツアーの段階的再開を発表した。同社の袁文英総経理は「予言が外れたことで、むしろ日本の安全性が証明された」とコメント。8月には例年並みの運航スケジュールに戻す予定だという。

また、日本政府観光局(JNTO)は緊急対策として、香港・台湾のインフルエンサー20名を招待し、日本各地の観光地をSNSで発信してもらうキャンペーンを開始。「#安全な日本」「#予言より現実」といったハッシュタグで、正確な情報発信を促進する。

観光庁の斉藤鉄夫大臣は記者会見で「風評被害対策として、総額50億円の緊急支援パッケージを検討している」と述べ、被害を受けた観光業者への直接支援を示唆した。

一方で、予言を広めた香港のYouTuber「老高與小茉」は、7月6日の動画で「予言が外れて本当によかった」とコメント。しかし「防災意識を高めるきっかけになったなら意味があった」とも述べ、批判と擁護の声が交錯している。

560億円という巨額の経済損失をもたらした今回の騒動。その教訓を活かし、より強靭な観光立国への道を歩めるか。日本の観光業界の真価が問われている。

投稿者 hana

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